ロバート・アダムは、「イギリスの建築装飾様式に、最も変革をもたらした人物」と高い評価を受ける建築家です。ヨーロッパの美意識の原点とされる古代ギリシャ・ローマの装飾様式を、より華麗に洗練させ、建築と室内装飾のスタイルを一体化させたアダムは、ケンウッドハウスやサイオンハウスなど、名だたる貴族の大邸宅を手掛けました。豪奢で品格の高い「アダムスタイル」は、18世紀ヨーロッパ上流社会で大流行をします。
その「アダムスタイル」により特注制作された豪奢なサイドボード。装飾芸術の黄金期と呼ばれる19世紀はヴィクトリア女王時代の逸品です。その典雅な意匠に、在りし日の大英帝国の、夢物語のような上流社会の優雅な生活が垣間見えます。
それでは細部を見ていきましょう。
少し紫がかった褐色のマホガニーの木目が、艶やかにサイドボード全体を覆っています。マホガニーは、現代ではワシントン条約で取引が制限される稀少種ですが、この家具が制作された1880年代は、輝かしきヴィクトリア女王の時代。世界中から、ヨーロッパで最も繁栄した大英帝国へ様々な物資がもたらされました。上質な木材に施された、ため息が出るほど美しい繊細な木彫。「アダムスタイル」の特徴である、古典的で豪奢な文様が、細部に渡り表現されています。中央部上段の引出の木彫は、中央に薔薇紋をあしらった、渦巻く花と唐草文様のアラベスク。これは特に高貴な身分の女性に好まれた文様で、ヴィクトリア女王が最も愛した終の城、オズボーンハウスのドローイングルームの天井装飾や、マリー・アントワネットのくつろぎの場所であった、ヴェルサイユ宮殿の「午睡の間」のマントルピースの装飾などに見られます。
下段も引出になっていて、中央の花壺からツリガネソウの花綱が、舞台の緞帳の曲線を描きながら優雅に垂らされています。ブロンズの引手は、月桂樹のリースがデザインされています。
左右の、ゆるやかな波型に歪曲する引出にも、花壺とダイナミックにくねるアカンサスの木彫が施され、ヴィクトリア女王が愛したホニトンレースの手の込んだ装飾が思い起こされます。
右の扉を開くと、取り外しができるボトルホルダーが出て来ました。邸の主の自慢のポルト酒や、スコッチウイスキーを食後にふるまうために特注されたものでしょう。当時の貴族社会の華やかなパーティーの場面が、目に浮かびます。これだけ装飾性が高い家具ですが、多くの引出やボトルホルダーが格納されており、合理性や機能性を追求するイギリス人気質が垣間見えます。
そして、中央左右のガラス扉に施される、神話の世界………。17世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの上級貴族階級の子弟は、総ての学業の締めくくりとして、数年をかけ、イタリアやフランスへ見分を広げるための旅行(グランドツアー)へ出かけました。特にイタリアでは、古代ローマやルネサンスの遺産である建造物や絵画を見て歩き、現地で雇った著名な画家や学者から直々に歴史や芸術文化について教えを受けました。彼らは帰国後、ヴェネトの宮殿やローマの遺跡を懐かしんで、自らのカントリーハウスの庭園に古代遺跡を模した建造物をつくらせました。この家具の所有者も、若き日訪れたイタリアの思い出をデザインさせたに違いありません。
メダイヨンの中に浮かびあがるのは、髪を中央で分け、左右に髷を作って冠を冠った女性の肖像。とても神秘的で高貴な表情をしています。この女性の髪形は典型的な古代ギリシャの貴賤階級のものですが、ギリシャ神話の最高位の女神、ヘーラーを表現しているようにも見えます。女神の肖像は、しなやかなリボン飾で装飾され、この家具により一層の優美さと気品を演出しています。
空想の翼を広げて、かつてこの家具が置かれていたお邸を想像してみましょう。古典的な建物に、フレスコ画を想起させる天井画、コリント式の柱、図書室には大理石の神々が居並んで、革張りの蔵書の間にたたずんでいます。客人をもてなすドローイングルームに、飾られたブロンズのミラー、映り込むシャンデリア、そして部屋の中心に、艶やかに存在する褐色のサイドボード………。
邸全体に一つの美意識が貫かれ、目にするもの総てが優雅に調和し、訪れた客人を物語の登場人物に変えてしまう極上の空間。選ばれた人々がくつろぎのなかに豊かさを実現させた時代から、時を経てやって来たサイドボード。華やかな物語の余韻を帯びながら、いまここに艶然とたたずみます。